昭和51年09月21日 朝の御理解
御理解 第61節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話にしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にして残しておくと、そう言う金光大神の御信心を、又金光大神のお話を守らして頂いて、例えば久留米の初代又は福岡の初代などは、尽きぬおかげを受けて来られた訳です。いわゆるお徳を受けられたと言う先生方は、皆んなな金光大神の尽きぬおかげを話にしておくと言う、その話を聞かれてしてその話を行じられて、尽きぬおかげを受けられる事になったんです。
そこでなら私共のまぁ言わば流れを汲むところの、なら福岡の初代吉木栄蔵先生、又は久留米の初代石橋松次郎先生が、あのようなかっ確たるごひれいを現し、今日にあぁ言うおかげを残しておられる訳であります。ですからやっぱりどうでもその、話しを残して置くと仰せられるのですから、その話しを頂かなければ又守らなければおかげは受けられないと言う事が分かります。
昨日久留米の親愛会からあの手紙が来ております。来月の四日に、特別研修会を開催のお知らせと言うのが来ておる訳です。毎月四日に真愛会が在っておる訳です。あちらの親愛会は甘木が親の愛の会ですかね、あっ真の愛の会ですかね、そすと久留米が親の愛の会と、ここの神愛会は神の愛の会です、まぁ金光様は同なじ筑後地区にですよね、おんなじ神愛会を三つも字こそ違うけれども、善導寺の親先生がもうあんたんところが、神愛会がと言うとねあのう紛れがましいから。
あんたんとこの神愛会はあの、のかしとこかっち言われた事があったけども、そんな訳にもいかん金光様から頂いたのだからと、もう今日に至っている訳ですけれども、ここでもその神愛会が丁度四日にあるんです。元は金光教宗教法人神愛会としておかげを受け取りましたけど、その神愛会はなくなって、まぁ教会にお取立てを頂いたんですから、ただ名残り道の神愛会て言うのが、沢山会があります中に、いわゆるここで信心を求めておるお道の教師だけの会であります。
それが丁度まぁ勿論こちらの方が先にその四日のある会、その後に久留米は出けたんですから、けどもあちらも四日こちらも四日ですから、真愛会私し出席した事がない、会費だけはまぁずっと治めておりますけども、出席した事はないんです、昨日もそう言う様な度々のあちらからの頂くと、結局初代の信心をいかに頂くかと言う事なんです。もうそしてどんなに研修しても研修しても結論が出ない。いや結論が出た事あるからそれを守ってもおかげにならない、どうした事かとまぁ言うのが今度のまぁ大会になる。
元らしい特別研修会のお知らせと、私思わせて頂きますのに、金光大神がいつまでも尽きぬおかげを話しに残して置くと言う話しを頂かれて、初代石橋先生なら石橋先生がそれを守られて、おかげを頂かれたんですから、初代が残されたそれを実行しなくておかげを頂く筈ありませんよ、どんなに研修して、例えば福岡の初代が、四神様からね、馬鹿と阿呆で道を開けと仰せられて、それを自分の信心の要として、福岡にあぁした大きな教会がでけ、沢山な出社もでけるような御ひれいを受けられた。
ですから初代は本当に馬鹿と阿呆に徹して、おかげを受けられたんですから、もうこげん分かり切った話しはないです。本当にはぁここが馬鹿にならなんとこじゃな、ここが阿呆にならんとこじゃなと言うのに、自分がいつも利口もんにばっかりなろうとするような事で、おかげの頂ける筈は絶対ありませんよね。なら久留米のこの親愛会だって同んなじ事です。四神様が石橋さん、信心辛抱さえをしておれば物事整わぬ事はないぞと教えられた。もうそれが自分の信心の要と頂かれた。
どんな時でもそれこそ辛抱し抜かれて、もう辛抱と言う言葉は使わんでよい程しに、言うならばリラックスな心の状態を開かれたのが、石橋先生です。始めの間はそれこそ血の涙の出るような事もおありにあったでしょう。けれどもそれをここが四神様が教えて下さった、それこそ尽きぬおかげの頂ける基はここだとばかりに、一生懸命辛抱された。そこからですいわゆる久留米の石橋先生を要して、三代金光様が、真の人と言うのは久留米の石橋さんのような人だろうと。
出過ぎもせず引っ込み過ぎもせずと言う様な、ご人格を作っておいでられた訳です。それも私は信心辛抱されて行く内にです、いわゆるいよいよ心が豊かに大きくなられた、そして心が豊かに大きくなられただけに、おかげも豊かに大きくなったと言う事は、もう火を見るよりも分かりきった事なんです。だからもうどんなに研修しても研修してもね、本気でほんなら信心辛抱しようと言う気にならなければ、おかげは受けられんと言う事。私共はまぁそう言うひとつの流れを頂いとりますから。
もう本気で久留米の初代、福岡の初代は馬鹿と阿呆になれと仰ったから、もう本気で馬鹿と阿呆になる気になった、又信心辛抱と久留米の初代は言われたから、又それであれだけの大徳を受けられたから、自分もやはり受けたい、だから信心辛抱それこそ泣く泣くでもやっぱり信心辛抱し抜いた、(笑いながら)それだけなんですよ、それを度々その初代の信心をいかに、頂くかとか現すかとかで、頂かずして現わされる筈は絶対ありませんからね。もういと簡単な事なんです。
それを本気で行じようじゃないかと、言う話し合いをするならまだしもの事、それをならあらゆるもうここにまぁ効能書きのような、効能書きと言う訳じゃなかでっしょうけども、まったく二枚に書き綴ってあるです、久留米のあれでどう言う風なあれで研修するか、と言った様な事が二枚ビッシリに書いてあります。素晴らしい言葉で表現してあります。けども結局基はなら、久留米の石橋先生の信心を頂くと言う事は、信心辛抱意外ない、信心辛抱している内にあらゆる信心が分かって来るんです。
ひとつが芯が貫かれたら、して自分にももうそれこそ以外でおありになったであろう、こう言う豊かな心がこう言う大きな心が、いつの間に出来て来ただろうかと言う心が備わって来るんです。だから始めの間は石橋先生とても、おかげを頂きたいばっかりに、一生懸命辛抱されたと言う事になります。福岡の初代でもそうですよ。それこそいくら一生懸命神様に御祈念、もう大変な御祈念力の強いお方であった、御祈念をしても御祈念をしても人は助からないいや参ってすら来ない。
もうとうとうお灯明を買う油代もなくなられた、そこでもう神様に自決をして神様にお詫びをする以外はないと、言うていわゆる腹を切ろう、切腹をなさろうとなさろうとした時に神の声があった、それを境に人が助かるようになったと言うんです。そしてその教えの芯になるものは、馬鹿と阿呆で道を開けと言う、ここで馬鹿にならんなんちゃもうそれこそ、グウグウ言おう事腹ん立った事もあんなさっただろう、ここで馬鹿にならんちゃ本当人ん前で赤恥かかんならんと、言った様な事もおありにあっただろう。
けれども四神様が馬鹿と阿呆で道を開けと仰ったから、馬鹿になりきり阿呆になりきっておかげを受けられたんですから、例えばなら福岡でもやっぱり、なら初代の信心をいかに頂くかと、言う様な話しはいつも出ておる、研修の的になっておるだろうけれども、もうそれに徹する事に決めようやと言うたら、もうそれで決まる訳です話しは。それを馬鹿になろう事なか阿呆になろう事なか、そしてからどうして初代のようなおかげが受けられんだろうかと、言うのはもうちょっと本当に可笑しな話。
ここでもなら私がです、私もただおかげ頂きたいばっかりにです、どげな修行でもしようと思うた、おかげ頂きたいばっかりですよ、お徳を受けようてなんて思うた事もなかった、とてもあたしどんがつが、お徳が受けられんと思うとるから、そしてもうそれこそ福岡の先生がさっしゃった修行。留米の先生がさっしゃった修行、桂先生のなさった修行と言った様な事も聞き伝えに、やって見たけれどもおかげは受けられなかった。それでこれから自分の身に起きて来る様々な問題をです。
それを受ける事を修行にしようと思うて頂いた信心が、言わば当った訳です、当ったち言うと意味が悪いんですけどもやっぱ当ったんです。あらゆる修行をして見てです、おかげが受けられなかったけれども、どげな問題を持ってきても嫌ちゃ言うまい、どげな修行が例えば苦しい事があってもそれを合掌して受けようと、それを修行とさせて頂きますから、そしてそれがだんだん分からせて頂いた事は、成り行きを尊ぶとか大切にすると言う事であると言う事が分かり。
成り行きを尊ぶとか大切にすると言う事は、そのまま神様の働きを尊ぶ事だから、大切にする事だからと言う事が分かって来たんです。もうこりゃ大変な信心だなとそんときゃ思うた。真の信心真の信心そう言う修行させて頂いている内に、はぁこれが真の信心だと分かったんです私は。そしてこの真の信心を貫くならばです必ずお徳も頂ける、おかげも頂けると言う事が分かって来たんです。そしてうなら事柄の上に全ての事に、御の字をつけさせて貰うと言う様な信心も生まれたんです。
だから合楽でおかげを頂く人はね、もう他にはないです。これを本気で実行する以外ないです。昨日宮崎の方達があぁしたシャープなおかげを頂く、そりゃどう言う訳だろうかと研修させて頂いた時に結論としてです、理屈抜きに純粋な心の状態が宮崎の方は強いからだと言う結論が出た。私は昨日一日その事を思うて見た。はぁ大概自分も純粋であり、理屈抜きのように思うとったたけども、そう言う教えをひとつ本気で取り組んで見るとですね、もう本当に粗雑な事に驚きますですね。
昨日は本当にもうあの言うならば、理屈抜きに純粋な気持ちでおかげを頂きました。昨日は親教会の霊祭でした。もう本当にあげな事してから、あげなこつどん言うちから、拝むでんそげぇん力入れてから、御祈念するち言うごと気持ちがどぉんこん起こらなかったのが、昨日ばかりはもう言うならば、理屈抜きに純粋で頂いとりますから、もう本当にもう一言一言見る物聞く物が有り難かったです。善導寺の教会で。そして終わった後に今度今年の12月の3日が記念祭です。その委員会がございました。
それで今度委員会に要るお金が、240万円ばっかり入る訳です、だからその承認をしてくれと言う会合があったんです、もうそう言う事をです、今迄ならそんなそげなん事つくらんでも、そげなん事せんでんと言った様なものがあったけどもね、もうそれこそもうなんですかね、理屈抜きにして純粋で受けよりますけん、もうそのまんま受けられるから不思議です。
昨日は若先生、幹三郎と三人で参りましたが、帰り車ん中でもう親子で、今度の記念祭も後70日間しかなか、それ作るもんも作らなならん、頼む事も頼まんならんから早よせな間に合わんけん、明日は明後日はち言いよると、もうお休みなって銀行ができんから、明日の朝銀行からこれこれ取らせて頂いて、早速あんた御供えに持って行ってくれと、言うて親子で話しが出来た、普通ならそれが出来んです。もう本当にこのね、例えば日々の教えを本当にそれを守ると言う事は素晴らしい事ですよ。
それで自分も大抵純粋であるとか、理屈抜きにしとる事あるけども、本気で理屈抜きにして純粋にあろうと、言う事に取り組んだら自分の純粋さとか、又は理屈抜きと言った様な事が育つであった事を、改めて気付かせてかせて頂いた。話しを聞く気にならなければ、そう言う心の状態は開けて来ないと言う事なんですよ。昨日久留米の稲垣さんがお届けされましたです。宮崎に弟さんがおられます、電気器具の商いをなさっておられます。時々ここにも参ってみえます、奥さんが熱心に信心をしておられる。
いわゆる弟嫁でありますその弟嫁から電話が掛かって来た、2、3日前電話がかかってきた、お姉さん主人がもうちょっとした事から三日間もものを言いませんち、こっちが言わんとは分からん、向こうが言わんとだけが分かる、そんなもんですよね、あん奴がもう三日間もものを言わん、自分も言いよらんとじゃん、ハッハッハそれば受けられた稲垣さんがですね、今合楽ではね頂きます頂きましょうの合言葉、もう主人はね弟はね例えば言わんでんよかけん、あんたが頂きますと言う気になってごらん。
その言われたら、わぁそんな頂き方があったですねち言わっしゃった。そして明くる日電話が掛ってきたのが、もうそれからすぐ主人がもの言いだしたと、もう恐れ入ってしまうそしてから又不思議な事はね、その日を境に売上げが倍増しとるち言う、だからね神の機感に叶うと言う事は、そう言うおかげが交流するんですよ。いかになら夫婦でも、そのものも言わんと言うごと心がどうかめげとる時にを、神様がお嫌いなったと言う事が分かる。そして本気ではぁそう本当にそれを頂こうと言う気になると言う事がです。
もう主人がもうもの言うと言うおかげでなくて、商売の上に倍増のおかげになっておると言う事実なんですよ。金光大神が尽きぬ話を、尽きぬおかげの頂けれる話を残しておって下さると言う話しは、そう言う事なんです。本気で頂きますと言う気になったら、そう言う言うならシャープなおかげに繋がっておると言う事です。その辺の所をね、あのうしだぁごだぁしたっておかげもやっぱしだぁごだですスキッとせんです。今日は皆さんあのお徳を受けるてんなんてんち、難しい話しじゃなくてね。
言うなら今日はあのうおかげを頂く話を、皆さんに聞いて頂いてるんです。しかも尽きぬおかげもうそん時そん時の教えを、本気で守る行ずるとどんなに福岡なら福岡で、吉木先生の信心をいかにして現すかと言う事と、どんなに高度な言うならば、示現に立って話を研究してもです、問題は本気で馬鹿と阿呆になる信心が出来なきゃ、おかげは受けられんと言う事。
久留米でもです、これだけもうそれこそ、毎月毎月初代の信心をいかに頂くか、いかに現すかち言う事は言いよるばってん、本気でほなら親先生が信心の、自分の要となさった信心辛抱と言う事を、本当に御結界に座ると言う事でも、もう泣こ事座ろう事ない時もあるけれども、さぁここが信心辛抱じゃろうと思うて、ひとつ座って見ろうじゃないかと言う話し合いがない限り、絶対久留米関係で言わば石橋先生が頂かれたような、おかげにはならないと思うんですね。
人がどうかこう言うたら、もう腹ん立って言うちからもう言うて返す、もうそれでねいくら初代の信心を頂こうの現そうの頂ける筈がない。もうだからどげな馬鹿でもチョイでも、それを実行する者がおかげ頂くんです、だから私はならおかげを頂いて実行をしたから、今日おかげを頂けてる訳です。福岡の信心も頂いて、本気で馬鹿と阿呆になる稽古をさして貰うた。信心辛抱と仰るけん、本当に辛抱が出来ん事あるところも、辛抱し抜かせて頂いた。そしてならおかげを頂いておる。
いかに素晴らしい教えが残っておっても、その教えば研究するだけでは決しておかげにゃなりません。なら昨日も私共一昨日の研修からです、ならそう言うおかげを頂くのは何処にあるか、ぎりぎりいわゆる研修したところが、理屈抜きにして純粋になる事だと言う事に、私は昨日一日取り組ませて頂いたら、今迄かってない親教会での有り難い心の状態が開けて来た。
見るもの聴くものが有り難いと受けられるのが一番いいです、あげな事どんしてから、あげな事どん言うちからと言うてから、聞きよるならもうその日一日は何ぁんにもならん事なるです。しかも次にならおかげの頂けれるチャンスを与えられてもです、まぁジット見とってからいよいよん時どん、おかげ頂こうてなんてんち心が起こらん。もういの一番にさぁはよ御用が、もうあと70日間しかない記念祭にです、はよ使うて頂かんならんけん、明日明後日と言いよると。
もうどうせ家の霊祭ですから、必ずお礼に私が行きますから、そん時でもよかようなもんだけれども、もうもうそれじゃ私の心が許さんと、言うくらいにです積極的におかげのそれはどう言う事かと言うと、私自身がおかげを頂けれる受けものを作る事なんですから。この61節はそれこそ神になるとかね、それが神様への真の道を踏んで行くのが金光大神が教えた事を、たがわぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ、これが神になるのぞと言うんですから。
お徳を受けると言う事が芯になっておる御理解を、今日はお徳と言う様な難しい事ではなくてね、おかげを頂くと言う事を聞いて頂いたんです。だからおかげを頂くと言う事であっても、お取次ぎをお願いしてただ頂いたと言うおかげではなくてです、守って頂くと言うおかげです、そう言うおかげが、自分の信心の血に肉にだんだんなって来て、それが積もり積もって、言うならお徳になるのですからね。
どうぞ。